たわごと Ⅰ

 ──どうしてこんなことになってしまったのか?

 

 

 私の名前は草井大成。くさいたいせい。小学生の頃についたあだ名は「臭い体臭」だった。

 

 クラスメイトがよってたかって鼻をつまみながら「体臭、こっちに来んな」などと言ってからかってきた苦い過去も、大人になった今では笑い話にできるようになった。

 

 カーテンはしばらく開いていない。昼間でも薄暗い室内で、私は微動だにしていない。

 

 日光を浴びないとビタミンDが生成されないから健康のためにも日光浴は必要なんだよと、テレビで偉い学者さんが言っていたのを覚えているが、そんなに健康に気を使っていたら最初から一週間の食事のほとんどをカップラーメンで済ませたりはしない。ビタミン? それで腹は膨れるのか?

 

 そんな食生活のせいだろうか。私はずっと便秘に悩まされていた。なかなか出ない。出てもキレが悪い。もしこの世に温水洗浄便座がなかったら、早晩私のお尻の穴は爆発していたことだろう。

 

 チャイムが聞こえる。玄関に来客のようだ。

 

「すいませーん」

 

 すいません。一般的に下手に出ている印象を持たせる言葉だが、今聞こえている声は、イラつき、険のある響きを持っていて、容易に声の主が持つ敵意を感じ取ることができた。

 

 おそらく家賃の件だ。

 

 一人暮らしのアパート。築五十年を過ぎたボロ屋だが、家賃の安さから入居希望者は絶えない。さらにこの部屋は、俗に事故物件と言われる、平たく言うと前の入居者が亡くなった部屋ということで、ただでさえ安い家賃が一段と安くなっていたので、霊感もなければ心霊現象をこれっぽっちも信じていない私としては、一も二もなく契約書にサインをした次第であった。

 

 その家賃は毎月振り込みで支払っていた。他人を信用できない気質の私は、銀行員すら信用することができず、引き落としというシステムを利用したことがない。振り込みの後も、銀行員による横領などで自分のお金がちょろまかされたりはしないかと不安で、証明のために明細をいつまでも捨てることができない。

 

 もうどれほどこうしているだろう。優にひと月は経過しているだろうか。その間に家賃の振り込み用紙がポストに届き、支払期日を過ぎて督促状が届き、そして自宅訪問となったのだろう。

 

 家賃の催促者は何度もチャイムを鳴らし、ドアをノック──最初はコンコンと聞こえた音が段々と強度を増していき、仕舞いにはサンドバックを殴るボクサーでもいるのかと思うような音だった──し、棘を含んだ丁寧語で呼び掛けるが、申し訳ないことに私には応答する気が皆無である。

 

 払えないものはどう足掻いても払えない。足掻けるものなら足掻きたい。申し訳ないという気持ちもある。だが、払えないのだ。抗えないのだ。厳然たる現実には。

 

 高校を卒業した後、就職もせず、自分探しだとのたまって毎日遊んで暮らしていた。バイトをすれば生活費には困らなかったし、何より一番の出費である家賃が安かったこともあって、自由に使えるお金はしっかり就職した同い年よりもあった。

 

 だから勘違いしてしまったのだろう。いつまでもこのまま生きていける、と。

 

 バイトをすればお金がある。つまり逆を言えば、バイトをしなければお金がないのだ。

 

 当たり前のこと。わかっている。わかっていながら、気づかないふりをしていたこと。

 

 就職していれば、万が一のときに保証がある。アルバイトにはそれがない。当然のこと。

 

 バイトも一つ一つが長続きせずに職場を転々としていたからだろうか。やる気のない若者だと思われたのだろう。いきなり出勤しなくなっても、誰も自宅を訪ねて来ることもない。

 

 

 突然激痛が襲ってきた。経験のない痛み。刹那、尋常ならざる事態だと理解した。どこが痛いのかもわからない。全身が悶えていた。体が硬直し、立っていられない。苦しい。誰か助けて。救急車を呼ぼうと必死に携帯電話まで這って行こうとした。

 

 ところが、間に合わなかった。

 

 私は死んだ。あっけなく。

 

 ひと月余り前の深夜。私は誰にも知られることなく息を引き取ったのだ。壁にもたれ掛かり、白目を剥いて、口から飛び出た舌がだらんと垂れ下がった状態で。

 

 誰にも知られず。誰にも看取られず。たった独り。苦しみ、もがき、足掻き、神頼み、念仏し、そのどれも実らずに、視界が闇に包まれた。

 

 死。それは死神が命を奪いにやって来るでもなく、天使がお迎えに来るでもなく、三途の川を渡るでもない。

 

 止だ。音が同じであるように、死は止だ。

 

 呼吸が停止し、脈動が静止し、命が終止する。

 

 それこそが死だった。他には何もなかった。ただ止んだのだ。

 

 実家からの独立時に覚えた不思議な感覚を今でも昨日のことのように思い出せる。多大なる興奮と、多少なりの不安。

 

 この部屋を訪れた人間も少なからずいた。家族。友人。恋人。正直に告白すれば、単発的な肉体関係もあった。酔った勢いで連れ込んだのは、熊のような顔をした女性だった。さぞ荒々しいのかと思いきや、ベッドの中ではウサギのように繊細だった。

 

 そこかしこに彼らと過ごした残映がちらちらしている。

 

 私はその部屋の中、一部が白骨化した遺体となっている。

 

 強烈な悪臭を撒き散らし、腐った血肉に群がる蛆を身に纏った状態で。

 

 飛び回る蝿の軍勢で、残映が霞んでしまう。その度に逃れられない現実を思い知らされるのだ。本当に死んでしまったんだと。逃避を許さない無慈悲なるベルゼブブが、いつまでも私を苦しめる。

 

 いつの間にかチャイムとノックと尖った丁寧語が聞こえなくなっていた……。

 

 

 こうしている間にも、私の肉体は腐敗を続けている。

 

 宇宙線

 

 人体をすり抜けていってしまう物質があると学校で教わったときは、果たしてそんなことが有り得るのかと疑問を抱いていた。

 

 体のどこにも穴など開いていなかったし、隙間も見当たらない。皮膚も全身を覆っていた。小学生ならいざ知らず、中高校生ともなれば走って転んで膝を擦り剥くなんて怪我もしなくなるし、皮膚が破れることと言えば指のささくれ程度だが、まさかそこからすり抜けるわけもないだろう。それとも口や鼻から入って尿道や肛門から出て行くのだろうか? いいや、無理だ。馬鹿げている。

 

 そんな考えで教科書に載っている内容を疑い、果たしてこれを信じて大人になってよいものだろうかと本気で悩んだ少しひねくれた学生が私だったわけだが、こうなってはその自信も揺らぎ始めている。

 

 こう──細胞と細胞の結合が解かれ、細菌や虫に体内を蹂躙され、私は朽ち果てている──なってしまっては。

 

 あんなに自信に溢れていたはずの肉体は、見るも無残に変色し、腐敗し、もしも指を突き立てる物好きがいるのならその指は容易く腐肉を貫くだろう。

 

 

 成れの果て。

 

 どんな偉業を成し遂げた人間も、大した仕事をしていない私のような人間も、死ねばこうなる。

 

 人間の成れの果て。

 

 生前、頑張っていても、怠けていても、最後はこうなる。

 

 平等なんだ。人間として生まれた以上、どうしても越えられない一線。それはここにある。

 

 昔の権力者がありとあらゆる宝物を手中に収めても、最後に求めるものは等しく、永遠の命だった。死なないこと。それを追求した。

 

 死を最も恐れるが故に、立ちはだかる敵を殺した。まるでそうすることで死を遠ざけようとしているかのように。臣下や民草だけでは飽き足らず、死までをそのコントロール下に置こうとしていたのだ。

 

 古代エジプトでは魂の復活が信じられ、その際に必要な肉体を腐らせないようにミイラが作られたという。

 

 では、私はもう無理だ。腐っている。帰るべき体はもう原型を留めていない。

 

 今ならこの体に戻してしんぜようとオシリス神に言われても、とてもそんな気分にはなれそうもない。もう私の魂が帰るべき箱はなくなってしまった。

 

 

 死者からのたわごとを聞いてやってほしい。

 

 こうなって初めて、私は後悔した。

 

 人生など、なるようになる。後から、どのようにでも取り返せる。そう思っていた頃の自分の甘ったれた思考回路と、その回路に支配されてきた人生を。

 

 常にショートカットを探し、なければ正攻法を選択、することはせずに電源を切ってしまっていた。

 

 あの時もっと頑張っていたら……。逃げずに立ち向かっていたら……。人生は変わっただろうか。もしかすると変わらないのかもしれない。でも、少なくともこんな寂しい終わり方ではなかったんじゃないか。

 

 あれこれと三省していると、思考はいつもそこへ帰結した。

 

 これまでの人生のどの場面でどうしていたら、こんな結末を免れることができたのだろうか。

 

 どんな人生を歩んでいても、不可避な運命だったのか。

 

 きっと、人生を全力で生きていても、こんな形で死んでしまえば、同じように後悔することになる。

 

 それでも、後悔の質が違うような気がする。

 

 私の後悔は、選択肢の未消化だ。

 

 目の前で起きた事柄に対して出来得る選択肢。人はそのうちのどれかを選択して、時には成功し、時には失敗し、学習して成長していく。成長とは選択肢の増加とも言うことができるかもしれない。

 

 私はその選択を、忌避し続けた。何も選ばなかった。だから、選択の後にどうなるのかを知らない。

 

 人生の無知だ。

 

 ネットで知識だけはいくらでも得られる時代にあって、私は人生を知る努力を怠った。

 

 無知な私には、正解がわからない。何が正しく、何が間違っているのか。私の人生は間違っていたのか。それ故の体たらくがこれか。もう、わからない。

 

 ただ後悔が続いている。悔やんでも悔やんでも、目の前の自分の遺体がまた後悔を連れて来る。

 

 どうか、後悔をしない人生を生きてほしい。もう私のような思いをする人がいなくなるように。どうか、どうか、生きてほしい。

 

 それが私の、最後の願いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……いいや。

 

 私は嘘をついた。

 

 見栄を張った。

 

 なんて浅ましいのか。

 

 こんなに醜悪な外見になってもまだ少しでも良く見られようとするなんて。私の欲は果てしない。

 

 

 私の本当の願いは一つだけだ。

 

 それ以外には、何も無い。

 

 先程の言葉は全て、格好つけのナルシシズムだ。

 

 笑えない。腐乱死体の自己陶酔。

 

 本当に聞いてほしいのは、これだけだ。

 

 私の本当の願いは……。

 

 

 誰でもいい。お願いだから、早く……。

 

 早く私を見つけてほしい。